
日常の忙しないテンポから少し離れ、心の深呼吸をしたくなるときはありませんか。からりと晴れた広島の空の下、少し足を伸ばせば、豊かな自然と職人たちの息遣いが息づく歴史ある宿がそっと出迎えてくれます。
代々受け継がれてきた老舗の佇まいから、かつて豪商の邸宅や酒蔵として時を重ねてきた歴史的建造物まで。その建物や土地が背負ってきた背景を知ることで、ただ通り過ぎるだけだった旅の風景は、より愛おしく味わい深い物語へと変わっていきます。
今回は、「神の島の格式と静寂」「海を望む回遊式庭園の美」「町並みに溶け込む建築美」それぞれ異なる趣で旅人を魅了する3つの名宿を深掘りしてご紹介します。
【宮島・岩惣】神の島に身を委ねる圧倒的な格式と参道文化

世界遺産・厳島神社の社叢(しゃそう)に包まれ、静かに波音が響く安芸の宮島。賑やかな表参道商店街を抜け、もみじ谷公園の深い緑へとしばらく歩を進めると、紅葉谷川の清流沿いに「岩惣」の堂々たる木造建築が見えてきます。
玄関を潜ると、そこには外の賑わいが嘘のような静寂と、伝統的な和風建築ならではの凛とした空気が漂います。職人の手が磨き上げた艶やかな廊下を通り、丁寧に整えられた数寄屋造りの客室へ。欄間(らんま)の繊細な意匠や床の間の佇まいに目を奪われつつ窓を開ければ、清流のせせらぎと川面を渡る清々しい風が頬をなでます。島内では希少な天然温泉「若宮温泉」の湯に身を沈め、瀬戸内の海の幸や地物の旬を盛り込んだ懐石料理に舌鼓を打つ時間は、まさに日常を忘れる贅沢です。
宮島における岩惣の歴史は、江戸末期の安政元(1854)年に遡ります。もともとは、もみじ谷の開拓とともに訪れる参拝客へとお茶や団子をふるまう小さな茶店としてスタートしました。明治期以降は本格的な旅館へと姿を変え、伊藤博文をはじめ、歴史を動かした数々の要人や文化人たちが足を運び、心を休めてきました。神聖な宮島の空気と参道文化が育んだ細やかなおもてなしの心は、今も変わらず訪れる人を優しく包み込んでいます。
【対岸・石亭】宮島を静かに愛でる高台の極上サロン

対岸の高台から、穏やかな瀬戸内海とそこに浮かぶ宮島のシルエットを一望する絶好のロケーション。青い海と光る水面を見下ろす地にひっそりと暖簾を掲げるのが「庭園の宿 石亭」です。
重厚な門をくぐると、目の前に広がるのは池を中心に名石や灯籠、小径が計算し尽くされた約1,500坪の見事な回遊式日本庭園。主屋や離れはこの庭園を抱くように配置されており、縁側に腰かければ、まるで庭園そのものがプライベートなリビングであるかのような心地よさに包まれます。さらに館内や庭園の各所には、文庫蔵を活かしたサロンや隠れ家のような「床下書斎」が点在。お気に入りの本を片手に、静かに自分と向き合う時間を愉しむことができます。
石亭の歴史は昭和7(1932)年、宮島対岸の絶景を望む高台に作られた庭園「対潮園」から始まります。その後、昭和25(1950)年に料亭旅館として創業。日本の造園美と建築美が最高のかたちで融合した「滞在型サロン」として愛されてきました。香ばしく焼き上げられた名物の穴子飯に舌鼓を打ち、夕刻には茜色に染まる海と庭園のコントラストを静かに眺める。宮島の存在感を遠景として贅沢に愛でる時間は、大人の旅に深い余白を与えてくれます。
【竹原・NIPPONIA】江戸・明治の繁栄と歴史建築に暮らす

宮島エリアの情景から一転、石畳の小道に格子戸の町家が連なり、ふと立ち止まれば酒蔵から甘い麹の香りが漂ってくる「安芸の小京都」竹原へ。
その町並み保存地区の風景の一部として溶け込んでいるのが「NIPPONIA HOTEL 竹原 製塩町」です。明治時代に建てられた元塩田地主の邸宅「旧吉井邸」や明治33(1900)年築の元酒蔵など、歴史的建造物を当時の趣を残したまま修復した分散型の滞在空間となっています。
ガラリと引き戸を開けると、太い梁(はり)が渡る高い天井と、かすかに香る土壁や木の匂い。職人の手仕事が光る格子や土蔵の重厚感を間近で感じながら過ごす時間は、まるで当時の豪商の暮らしに招かれたような特別な感覚を呼び起こします。客室にテレビや時計を置かない洗練された空間デザインも、時を忘れて建築そのものと向き合う贅沢を演出しています。
竹原で建物が背負う産業の歴史は、江戸前期の寛文5(1665)年の塩田開拓から始まります。製塩業や酒造業で栄えた豪商たちが築いた町並みと文化は、今もこの街の誇りです。夜には静まり返った石畳の小道を散策し、地産の食材を惜しみなく取り入れた極上の和フレンチを味わう。歴史的な日本建築に溶け込み、「暮らすように泊まる」体験は、この場所だからこそ味わえる特別な余韻を残してくれます。
旅館のストーリーとともに味わう特別な広島のひととき

単に観光名所を効率よく巡るだけでなく、建物や土地が受け継いできた歴史、そこに込められた職人や先人たちの物語に思いを馳せる。すると、何気なく眺めていた畳の目や庭の佇まい、一杯のお茶の味わいまでもが、より趣深いものとして立ち現れてきます。
かつて交通が不便だった時代、人々は神仏への祈りや無事の願掛け、あるいは未知の風土への強い憧れを胸に、何日もかけて旅に出かけました。宿で羽を休め、その土地の風土や文化に深く心を寄せる特別な体験は、時代を超えて現代を生きる私たちにとっても、心を豊かに満たしてくれる時間となります。
宮島の神聖な緑と歴史に包まれる岩惣、対岸から海と庭園美を贅沢に愛でる石亭、竹原の歴史的な町並みと建築美に浸るNIPPONIA。広島が誇るこの3つの名宿は、それぞれ異なる物語と切り口で訪れる人を迎えてくれます。
かつての旅人たちに思いを巡らせながら、日常を離れた静かで贅沢な時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。
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